「沙季、話があるんだけど、いいかな。」
放課後。早く帰りたい足で昇降口とは逆方向に階段を上り、呼び出された先の屋上へ向かった。夏を過ぎるとここで弁当を食べる生徒も減るせいか、ただでさえ重たい鉄の扉の蝶つがいは油が切れていて、メンテナンスもされていないようだった。
秋口の寒空の下に出ると、そこには誰もおらず、つまり呼び主もまだ来ていない。仕方が無いからベンチに座って待つとする。
「ふぅ。」
今日は半ドン。まだ太陽は高いけれど、さすがにこの季節だと少し肌寒い。
「あー、そろそろ私服も冬もの準備しないとなー。」
なんて考えていると、風といっしょに吹奏楽部の演奏が聞こえてきた。
「季沙は今頃部活か。」
来週は定期演奏会だから、練習には夏の大会の頃と同じくらい気合いが入っている。三年生はこれが最後の舞台だから、なお一層だろう。曲は今年の大会の自由曲だ。夏にいっぱい練習していたから覚えている。確か主人公が過去にタイムトラベルするというストーリーだったはず。
タイムトラベルか。もしできたらあたしは何をしたいだろう。お母さんの死に目に、アイツと会わせてあげたい?アイツに、季沙をもっと大事にするように言ってやりたい?
「…………。なんでアイツのことばっかり。」
あたしは。あたし自身は?
季沙に、素直になれたらとよく考える。でもそれは、やっぱり季沙を傷つけると思う。あたしはあたしの気持ちに気付くのが遅すぎた。たまに、もっと早く気付いたとして、季沙にもそれを打ち明けていたらと想像する。季沙は、どう返事してくれるんだろう。そしていつも、あたしの心の中の季沙は、戸惑いの表情を浮かべて、最後には「ごめん」と言う。
季沙が知るあたしは、浅野沙季で、双子で、姉で、親友。それ以上でも、それ以下でもない。
「はぁ。やめよ。」
無駄な思考トラベルからの帰還。さっきの曲は中盤にさしかかり、オーボエのソロが届いていた。
序盤のインパクトある合奏から中盤は一転して静けさの旋律。終盤には前半の力強さを再び奏でて、壮大なエンディング。なーんて。音楽にはあまり詳しくないんだけど。でも、演奏している彼女たちの熱意はよく伝わってくる。何よりも、季沙はいつも楽しんで演奏している。それを見てると、本当にこっちまで気分が晴れて、とても心地良い。
そういえばこのソロ、中等部では坂本妹が担当しているんだっけ。
「で、その兄貴はいつになったら来るのかね。」
嫌みのひとつふたつ、今からでも考えておこう。
吹奏楽部の通し練習の何曲目かを聞き終わり、うたた寝しそうになっていたところ漸く呼び出しの主がやって来た。
「ごめん。待たせたか?これ、お詫びに。」
「ざっと二・三十分。……お礼は言わないからね。」
寒空の下で待たされた恨み辛みを罵声と共に浴びせてやろうかと思っていたけど、温かい缶コーヒーを先に手渡されたらまあいいかと思ってしまった。安くなったな、あたしも。
「ごめん。急に先生に呼ばれて仕事押しつけられたから。連絡入れられたらよかったんだけど携帯持たずに教室でたから……。」
「いいよ。それより話って?」
「ああ。……となり、座っていいか?」
「悪いがのび太くん、こいつは一人用なんだ。」
真ん中に陣取った位置で更に両腕を拡げる。スネ夫というよりはジャイアンだな。
あたしはベンチから動くつもりはない。話を聞いてやる立場なんだから、足を組んで偉そうにふんぞり返ってようが別に構うものか。せめてこれくらいの仕返しはしてやってもいいだろう。
「誰がのび太だよ。じゃあまぁいいや。そのまま聞いてくれ。」
「だから何さ。」
「俺、この数ヵ月お前たち三人とよく行動してただろ?それで気付いたんだ。麻子にフラれて、こんなこともう当分無いだろうって思ってたんだけど、でも俺……。」
ああそうか。こんなところに呼び出されたことで、なんとなくそんな予感はしてたけど、やっと報われるのか、季沙の初恋が。なんだか、嬉しくもあり、寂しくもあるな。あたしも手を尽くしてきた甲斐が――
「俺、沙季のことが好きだ。」
「は?」
待て。なんて言った?
「もっと早く気付くべきだったよな。季沙の振りをして俺に会ったり、」
違う。
「季沙とは委員長同士の付き合いがあるから、それで季沙が引き合わせようとして、三人で出掛けたりしてたんだよな。」
違う。違う!
「俺、麻子のことで相談に乗ってくれた時から少しずつ気になってたんだ。」
違う!あたしが望んでいたのは、こんなものじゃない!
「一緒に行動してる内に、お前といるのが楽しいって思えてきて、それが麻子に抱いていた気持ちと同じなんだって気付いたんだ。」
全て無駄だったのか。
全て裏目に出たというのか、あたしの行動が。
ああなんだったか。タイムトラベル?あたしはこの男に関わるべきじゃなかった。季沙にアドバイスをするだけに留めていればよかった。
最悪の展開だ。こんな展開は想定していなかった。どうしてこうなってしまった。どうなってしまうんだ、これから。
これは季沙の意にも叛している。
裏切ってしまうのか。あたしが?季沙を。
「ヤダ。」
あたしが、季沙を、裏切るわけには、いかない。そんな、嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だいやだいやだイヤだイヤだイヤだイヤだ!!
あたしはアイツとは同じになりたくない!季沙を裏切りたくない!季沙に嫌われたくない!!そんなのは絶対にイヤだ!!
「沙季、どうしたんだよ?頭痛いのか?保健室行くか?」
「あたし………だ。あたしの……せ…だ。あたしの……せいだ。あたしが……アンタに……。」
「沙季?」
「なんなんだよ。なんでなんだよ。なんであたしなんだよ。季沙じゃダメなのかよ。なんで、なんで、なんであたしなんか好きになってんのさ。ワケ分かんねーよ。」
「さっきも言ったけど、沙季は俺に対して親身に接してくれたしさ。季沙もそうだったけど、委員長仲間っていうか。季沙とは友だちみたいな印象なんだよ。」
「バカじゃないの。そんなの関係ないし。あたしがアンタに関わったのはただ、季沙のためだ。それ以外に理由なんかねーよ。」
「季沙の?」
――がっ
「痛ッ!何すんだいきなり!」
「脛蹴りだこの唐変木!!とんだ勘違いヤローだよアンタは!」
「何が!」
「……ッ!だぁかぁらぁああぁ!!」
本当は、これだけは言いたくなかった。本来こいつに気付かせるべきだったこの事実。あわよくば季沙本人の口から初めて伝えるべきこの真実。だが、こうなってはもうあたしが伝えざるを得ない。このバカに示さねばならない。言わずにはいられない。
「季沙はね、アンタのことが好きなの!だからあたしは好きでもないアンタと中継ぎで会話してたし、季沙がアンタと一緒に行きたいと思った所にあたしも付いて行った!それだけなの!あたしはアンタのこと、むしろ嫌いなくらいなんだから!なんでそれに気付かないの!なんであたしなの!同じ顔じゃない!なんであたしなんか好きになってんだよ!!?あんだけ近くにいて、そんな勘違いが出来て、なんであの子の気持ちに気付かないんだよ!!」
「……ごめん。」
「ほら、そうやってすぐに謝る。だから嫌いなんだ、アンタなんか。」
叫んでからしばらくして冷静になると、周りの音が耳に入ってきた。運動部の掛け声。演劇部の発声練習。吹奏楽部の合奏練習が終わったのも、ちょうどその頃だった。
「分かってると思うけど。今あたしが言ったこと、アンタがあたしを好きだってこと、絶対に季沙には言うなよ。」
「分かってるよ。」
「あたしには季沙だけなんだ。あの子の幸せを一番に願ってる。あの子の泣き顔だけは、もう見たくない。もう泣かせないってあたしは決めてるんだ。」
「……それって、お前たちの父親のことか?」
「っ!季沙が話したの?」
「ああ。」
「そうなんだ。あの子の中の最大のトラウマなのに。それだけ心を許してるのに、アンタはそれに気付かないとか。ほんとどうかしてるよ。」
「……。」
「帰る。」
立ち上がって、あたしは初めてまともに、この坂本誠という男の顔を見た。確かに、パーツの造形は悪くない。相対的に見れば十分モテる部類には入るんだろう。季沙が惚れるのも道理というわけか。あたしはちっともときめかないけど。
でも、じっとまじまじと見ていたせいか。少し顔を赤くしてたじろぐ男の目をそれでも放さず、あたしは言った。
「近い内にさ、あの子、アンタに告白するつもりだから、聞いてやってくれないかな。」
「それは、でも……。」
「後生だよ。」
ああ。季沙が知ったら、嫌われるな。
「あの子と付き合って欲しい。あの子を泣かせないで欲しい。あたしはあの子が笑顔になるためだったらなんだってする。だからこうやって、大嫌いなアンタにも頭を下げてお願いもする。手前勝手なのは分かってる。今のあたしは、季沙の気持ちを無視してる。裏切ってる。でも駄目なんだ。あたしじゃもう駄目なんだ。どんなに努力しても、どんなに尽くしても、あたしじゃあの子の光になってあげられなかった。これはアンタにしかできないんだ。アンタがあの子の気持ちさえ受け入れてくれれば、あの子の願いが叶うんだ。だから、どうかッ!」
「お前はそれでいいのか?」
「……え?」
「俺がそうしたとして、俺が好きになったのは沙季だ。そりゃ、季沙も確かに良い奴だけど、やっぱり友だちの域を今はまだ出てない。そんな俺があいつと付き合っても、幸せにしてやるなんて無理だと思うんだ。それは、お前の望む形じゃないだろう。」
「それは、付き合ってから好きになってくれれば。」
「そうなる保証はないし、もし別れたら、結局は同じことだろう。」
「どうしても、ダメなのか?」
「お前が俺に対して脈が全くないってのは、もう分かったよ。それは諦める。でもお前、季沙に執着しすぎてないか?いくらあいつを泣かせたくないからって、無理にでも付き合わせようとするか?季沙の為って言ってるけど、お前は、俺があいつの希望を聞くことでお前の願望を俺に叶えて欲しいんじゃないか?」
「……。」
ああ、その通りだ。あたしは、季沙の笑顔が見たかった。だけど、あたしには出来なかったから、あの子の笑顔を見るために、こいつを利用してただけだ。
「バカ。なんでそんなとこだけ鋭いんだよ。」
結局、これがあたしの受ける酬いか。
「確かにね、そう。欺瞞だよ。エゴだよ。でもさ、だからってね。ほら、たった一人の家族だもん。幸せを願うのは当然ってもんでしょ。」
「そりゃそうかもしれないけど。」
「あんたさ、キスしたことあんの?」
「は!?なんだよ藪から棒に。」
「あんの?ないの?」
「……ある、けど。でもいまそんなこと関係ないだろ。」
「そうか、それを聞いて安心した。」
「……ッ!?」
対面する肩に両手を乗せ背伸びをする。誰ともしたことのない、初めての感触。少しだけ歯が当たって痛かったけど、すぐに体勢を整え直して口をふさいだ。顔は見たくない。目尻にしわが出来るほど思いっきり目をつむって、息も止めた。
気持ち悪い。欧米人はこんなものを挨拶代わりにしているのか。日本人に生まれて良かった。
「ぷはっ。」
「おああわああお前!」
「……乙女のファーストキスと交換条件だよ。グダグダ言わない!これでもう、嫌とは言わせない。」
「おまえ、涙……。」
そう。それはあたしの恋が終わったことを自覚したがゆえに。これがあたしの、あたしに対する罰だ。
「あー!泣く程いやだった!!きもちわるい。口ゆすいでこよ!」
誤魔化すように、足早に階段の方へ向かう。これ以上は堪えられない。
「沙季!」
振り返らず立ち止まる。涙であふれた姿を、彼には見られたくない。
「お前の覚悟は分かった。でも、確約はできない。だけど努力する。季沙は泣かせない。」
「バカっ。ありがとう。」
教室に戻ると、そこには幼なじみがいて、まるであたしを待っていたかのように手を振ってきた。
「おつかれさま。」
その優しい言葉はいまのあたしにはあまりにも辛辣で、気付けばもう涙が止まらなくて。泣いて、泣いて、ただひたすらに彼女の胸に抱かれながら泣き続けることしか出来なかった。
*
「好きです。初めて教室で会った時から、ずっと好きでした!」
「俺も、少し前からだけど、季沙のこと気になってた。」
「え?えっと、ほんとに?」
「ああ。だから、うん。うれしいよ。」
「じゃ、じゃあ。その、付き合って、くれるの?」
「俺でよければ。」
「よ、よかったぁ。」
それは紛れもない。彼女の心底からの笑顔。自分が守れなかった笑顔。自分が取り返せなかった笑顔。
「こっ、これからもよろしくね、坂本くん。」
「うん。よろしく。」
「……。」
「……。」
「えっと、じゃあ、そろそろ帰らなきゃ。姉さん待たせてるから。」
「そうなの?」
「ごめんね。告白するのにいっぱいいっぱいで、今日の私の勇気はここまでなのです。今日送ってもらったら、わたし心臓鳴りすぎて倒れちゃうかも。」
「そっか。じゃあ、またあした。」
「うん。また、あした。」
「おかえり。」
「姉さん、わたし、笑えてたかな。」
「うん。良い笑顔だったよ。輝いてた。」
「いまも、笑えてるかな。」
「うん。もうぼろぼろだよ。」
そう、彼の元を離れてから緊張の無表情で、あたしに気付いた途端それが解けたのか、うれし泣きで、彼女の表情は瞬く間に崩れていった。
「ふえーん!よかったぁ!よかったよぉ!!ドキドキしたぁ!でも、坂本くんも私のこと、好きって言ってくれたぁー。」
たとえ喜びからきたものだとしても、やっぱり、あなたが私に見せるのは涙なんだね。
誰よりもあなたの側に居て、誰よりもあなたを想い、誰よりもあなたに振り向いてもらおうと努力しても、私が得たのはあなたを失う空虚感。
でも、あたしはそれでも満足している。あなたの幸せがあたしの幸せだから。彼ならあなたを満たしてくれる。だったら、あたしはもう何もいらないから。
「うん。よかったね。よくがんばった。」
ああ、あたしはいま、笑えているんだろうか。