商店街から少し離れた閑散とした通りに、周囲の建物とはアンマッチなゴシック調の風貌をした喫茶店がある。お気に入りのそのお店であたしはいつも通りのコーヒーをふたつ注文した。ひとつは自分の分。もうひとつは連れだって入ったコイツの分だ。
程なくしてこの店のマスターでありウエイトレスのクロエさんがカップをテーブルに運んできた。
「カレシ?」
「そんなわけないじゃないですかあ。」
「そうだよねー。あははははは。」
クロエさんとは自分のことをいろいろ話しているくらい親しい間柄で、たまにこうやってジョークを挟んでくる。
「今日は一杯分サービスしておくわ。ワタシからのおごり。」
「ありがとうございまーす。」
さっそく一口いただく。うん、やっぱりおいしい。因みにあたしは砂糖もミルクも入れない。ブラックでそのままコーヒーの風味を愉しむのが一番おいしいからだ。
「さて。で、話ってなんなんさ?」
こういうしゃれた場所に慣れていないのか、さっきから一言も喋っていない目の前のヤツに問いを投げる。
しばらく考え込み何かを言おうとしては口をつぐむ。なかなか踏ん切りが付かない様子でとりあえずその場を誤魔化すようにカップに口を付けると、やや顔をしかめた。どうやらコイツはブラックが苦手なようだ。
「……あのさ、」
そっとカップを戻すと、ヤツはやっと口を開いた。
「姉さん!」
昼休み。紗羅とこれから弁当を食べようと向かい合ったところで隣のクラスから妹が飛び込んできた。
「どうしたん?そんな慌てふためいて季沙らしくない。」
「あの、ちょっといい?できれば二人で。」
「えー、あたしこれからおべんとー。」
「ごめん紗羅、姉さん借りてくね。」
「いってらっしゃい。待ってるわ。」
「そんなー、たーすーけーてーよー。」
有無を言わさず腕を引っ張り教室を出る妹と表面だけの笑顔を振りまき手を振る幼なじみ。救いの手なんてどこにもなかった。
「でー?なんなんさー。おなかへったー。」
お昼の食事時になぜか特別棟にいるあたしたち。特別棟とは特別教室が設置されている校舎で、つまり今の時間帯は誰も寄りつくことがない。
「あのね、坂本くんに呼び出されちゃった!」
「はぁ?」
ぱーどぅん?わっでぃっじゅーせい?
「なんて?」
「坂本くんが、放課後にちょっと話したいことがあるんだけど、って……。」
「なんで?」
「分からない。でも、どうしよう?」
どうしようも何も、そりゃ字面だけ見て思い付くのは告白とかそういうシチュエーションだけど、しかし昨日の今日だ。昨日、ヤツは幼なじみであるところの中岡麻子と連れ添い、そらもー仲の良い印象をこちとらに見せ付けてくれた。となると、別の案件か。
「どうしようってもなー。季沙はどうしたの?訊かれた時、なんて答えたんさ。」
「時間空いてる?とも聞かれたから、ちょっと分からないから後で確認してみるって、保留中。」
「うーん。ちょっとでも内容を聞いてたりはしないんだよね?」
肯定の季沙。
行けば?と言うのは簡単だ。でもどうだろう。アタリかハズレか分からない博打でもある。或いはチャンスかも知れない。うーむ。
「ねえ、チャンスかな、これって。だけどやっぱりちょっと怖いな。」
季沙も同じ考えらしい。ハイリスクなくせに、その先の分岐がハイリターンかノーリターンかの違い。難題この上ない。
「あ、そうだ」
何か思い付いたらしい。
「もしよかったら姉さん代わりに行ってくれない?」
「は?」
ちょっと待て、なんだと?
「昔よくやってたじゃない、お互いの髪型を変えてクラス入れ替わったり。紗羅にはバレちゃうけど、姉さんは坂本くんとは昨日初めて会ったばかりだし、大丈夫だよきっと。」
いや、既にそれをやって見破られてるのだよ。とは言えない。
「も、もしこっ、告白とかされたら、どーすんのさっ。」
「その時は……、正体バラして私に言ってくれれば……。」
「アホか。あんた、自分への告白自分で聞かないでどーすんのさ。」
「で、でも、昨日の子のこともあるし、それはあまり、考えられない、と、思う。」
だんだんと小さくなっていく声。確かにそれはさっきあたしが行き着いた解答だ。向こうから告白の線はない。だのに安心して挑めないというのは、恐らく中岡麻子に関する相談を持ち掛けられた場合だろう。季沙なら、堪えられない。
でも問題は他にもある。あたしと季沙の違いを、ヤツは看破していると言うことだ。でも季沙はそれを知らない。この子にとって、頼みの綱はあたしだけなんだ。
「わーった。やってみるよ。」
「いいの?」
「その代わり、もしチャンスがあってもあたしは告んないかんね!それは自分でやんな。」
「うん。ありがとう、姉さん。」
心の底から感謝の念が伝わる笑顔。同じ顔のハズなのに、あたしには到底マネ出来ない、そんな表情。
なんでこの子は、そんな笑顔をあたしに見せるんだろう。その笑顔が、あたしには眩しすぎて、痛すぎるというのに。
放課後、あたし達は一度トイレで落ち合って髪型を変え、クラス章とカバン、携帯電話などの小物類を取り替え、昇降口で別れた。このあと、季沙は商店街で夕食の買い物をしてから帰宅。あたしは男と密会と、そういう寸法だ。……笑えない。
季沙に指示された場所に向かうと、そこには既に坂本誠が待っていた。
「やあ。悪いな、呼び出して。」
なんとも張りのない声だった。今日一日こんな調子だったのか、コイツ?
「ううん。」
それはともかく。この前、季沙より声がやや低いと指摘されたので、意識してやや高めの声を作り答える。極力会話はせず、短い言葉だけ発すれば、簡単にはバレないだろう。
「ただ呼び出しておいてあれなんだけど、あまりここら辺詳しくなくて。どこかファストフード店とかある?」
ジャンクはあまり食べないから思い付かないな。……男とふたりでってのはちょっと気が引けるけど、あそこにするか。あそこなら目立つこともないし、マスターの口も固いし。
「こっち。」
指をさし先導する形で前に出た。くそー、なんでこんなに緊張するんだよ。クラスとりかえっこの時だってもっとお気楽だったのに!
二十分程歩いてようやく目的地に着いた。実際の体感時間はもっと長かったけど、時計は嘘をつかない。
学校からここまで、途中の商店街を避けて通ると、喧騒から離れた静かな住宅街がある。和式の古風な家屋だったり新築の分譲マンションがあったりとそこに統一性はないが、中でもひときわ目を引く煉瓦造りの喫茶店がある。目立っているのに、だけどそこにあっても全然違和感がなく、矛盾した表現だけどそこにあるのが自然で当たり前のように溶け込んでいる、そんな不思議なお店。水出しコーヒーがおいしく、初めて来た時にすぐに気に入ってしまった。が、いつ入ってもお客は少なく、マスター曰くこれが普通らしい。常連の身としては経営状況が気になるところだけど、他にも収入はあるからご心配なくとのことだった。
「ここ。」
道中の会話をなるべく抑え、生返事で尽くしてきた甲斐ありなんとかバレずに済んだが、さて、これからどうしよう。本格的に話をするとなると、声が保つかどうか。
「浅野さあ、ちょっといい?」
「?」
振り向くと当然坂本誠がいるわけだが、その表情はどこか変だった。これから相談を持ち掛けるというにはさっぱりしているような、少なくとも学校で見た陰鬱なものではなかった。
「違ったらごめん。ひょっとして、浅野姉の方?」
なにぃー!?
「な、なんで?」
白を切る。
「や、いつもと声が違うかなって。ごめん。なんでもないや。」
どうする?このまま思い違いだと思わせるか。それでもあたしは声は変えていた方がいいんだろうなー。季沙のことを考えると、ここは演技を通した方がいいんだろうけど、いや待て、今回のことを無事完遂したら季沙はまた同じ手段を使うだろうか。その逆はどうだろうか。
「……。」
「浅野?」
「だー!ヤメだヤメ!なんだよなんで分かんだよー。わけ分かんねー。」
「じゃあやっぱり。」
「あーそーとも。あたしが沙季さんだ。文句あっか。つーかなんで分かんだよー。声高くしてたのに。」
「ちょっと高すぎたから。」
分かるかー!!
「もうアンタ科捜研にでも就職しちまえよ!」
「ちょっと、沙季ちゃん。」
入り口の前で騒いでいると、その扉が開き、その人物があたしの名前を呼んだ。
「あ、クロエさん。」
性別女、見た目は若いけどておばちゃん口調で年齢不詳、北欧人のように色白で大和撫子のような長い黒髪、あまり見慣れない濃いブルーの瞳、達者な日本語、故に国籍不明、訊いても教えてくれない。唯一分かっているのは「くろえ」という呼び名だけ。名字なのか名前なのかはこれまた教えてくれなかった。その上この喫茶店の名前「ダフニス」は、モーリス・ラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」から取っているらしいので、本名かどうかも定かではない。つまるところ正体不明なのだ。
「あ、じゃないよ。入るの?入らないの?営業妨害はお断りだよ。」
「入る。入ります。ホラ、アンタも来な。」
「で、話ってなんなんさ?遠慮すんなや、ここでの払いだったらあたしが持つから。あー、因みにあたしは沙季だけど、季沙に話そうとしたことそのままでいいんだからね。あくまでも、いま、私は浅野季沙なんだから。」
「……あのさ、浅野は――」
「ストップ。」
「なんだよ。」
急かされて喋らされた上に遮られ、ややムッとした表情を見せる坂本誠。それを無視し、あたしはひとつの提言をする。
「あたしのことは沙季って呼びな。もちろん、季沙のことも名前で呼ぶこと。アンタはもうふたりとも知ってるんだしね、浅野ってだけじゃどっち呼ばれたか分からんでしょう。」
「じゃあ、今はなんて呼べばいいんだよ。」
「は?」
「今は浅野季沙なんだろ?」
「沙季でいいよ。」
「お前の言ってることが分からな痛って!なにすんだ!」
「脛を蹴ってやった。あたしのことをお前呼ばわりなんざ五十億年はえー。」
「はぁ。」
「あ、ただし季沙のことを名前で呼ぶには、ちゃんとあの子の許可を取ること。いいね?」
「分かったよ。」
ため息混じりの返事にイラッとしたが、ここは堪えよう。いつまで経っても話が進まない。
「で、何が訊きたいの?」
「お前が遮ったくせに。いったッ!」
「あ?」
「沙季さん。聞きたいんだけど、いいですか。」
「さんはいらない。敬語はやめろ。はいどうぞ。」
「……えっと、沙季、はさ。」
ここで言葉が詰まる。だんだんとこの男にイライラしてきた。季沙の頼みでなきゃ二度とご免被りたいくらいだ。そもそもあたしは昨日の中岡麻子との一件で季沙を傷つけたことを許すつもりはないのだ。たとえ季沙と結果的に恋仲になろうともだ。
「沙季は、好きな人はいるのか?」
「いるよ。」
「……どんな人か、聞いても平気?」
普通男子が女子にそーいうこと訊くか?てか、コイツ季沙にこんな質問するつもりだったんか。あたしが代わりに来て正解だったな。
「ひとつ教えたげる。あたしは、アンタみたいに女心を弄ぶヤツは嫌い。」
「弄ぶなんて、そんな。」
「フツーはね、女の子の気持ちに男子が踏み込んでいいもんじゃないの。それを聞き出そうなんて、弄ぶ他なにがあんのさ。」
「……。」
「ふぅ。まーいーわ。それで?アンタはあの中岡麻子って子が好きなんでしょ?」
「はっ?なんでそんなこと、まだ何も言ってないぞ?」
心底驚いている様子だった。バカなのか、コイツは。
「あのね。昨日のアンタの様子見りゃ、余程の木石でない限り分かるわさ。」
「……そうか。」
「はぁ。」
今度はこっちのため息が増える番だった。要するに、悪い予想通りだったというわけだ。コイツは今日季沙に、中岡麻子へ対する恋愛相談を持ち掛けようとしていたのだ。
「なんか面白そうな話してるじゃないかい。」
デザートを置きながら嬉々としたクロエさんが割って入ってきた。ってあれ?
「今日は頼んでないですよ?」
「なーに。他人の恋バナより高い物はないってね。幸い他にお客はいないし、本日の営業は終了。遠慮なく続けな。」
そう言われて入り口の表札を見ると、「OPEN」という文字がこちらに向いていた。もちろん普段の閉店時間よりも数時間早い。なんということだろう。この人はあたしらの会話に交じるために店仕舞いしてしまっていた。
「んで、チミは名前なんてんだい?マコトくん?で、幼なじみのその子のことが好きなわけだ。ははーん。告っちまいなよ。」
クロエさんてこんなに喋る人だったんだ−。普段は、口調はアレだけど物静かで、親身なお姉さんという感じだけど、坂本誠からいろいろ話を聞いて楽しそうに相づちを打っている様はまさにゴシップ好きなおばちゃんのようだった。
「いや、あの。」
坂本誠もたじろいでいる様子で、何かを言いたげだがクロエさんのマシンガントークに打ち消されてしまっている。
「だって三年ぶりだっけ?それで再会したんだし、チミとしてはチャンスなわけじゃない。だったらさー。」
「いや、だから、あの。」
「うん?」
「したんです。告白。……昨日。」
「おー!」
「……振られました。」
「おーう。」
沈黙するクロエさん。さっきまでのはしゃぎようといったらなかったが、今この瞬間からそれと対をなす程に黙りこくってしまい、挙げ句、
「沙季ちゃん、ワタシ明日の仕込みがあるから、あとヨロシク。」
あたしにお鉢を回してきた。
「あー……。」
どーするの!?この死んだ空気!
「クロエさん、とりあえずコーヒーもう一杯。」
呼ばれて、クロエさんはバツが悪そうに、音も立てずそーっと三杯目のコーヒーを持ってきた。
「まーとりあえず飲みなよ。ホラ、砂糖とミルク。」
さっきまでの悪態口調も、流石に柔らかくなるというものだ。
坂本誠の手付かずだったカップを自分の方へ引き寄せ、新しい淹れたてのものを差し出す。
すっかり冷めていたけど、あたしは構わず飲み干し、ヤツも砂糖を五杯、ミルクをひとまわり入れかき混ぜてから一気にのどに通した。
「甘党?」
「や、苦いのが苦手なだけで甘い物が好きってわけではない。」
「そーなんだ。」
で、なんの話をしていたんだったか。あー、恋愛相談だったな。
「傷口を開くようで悪いけど、今日相談したいことってのは、中岡麻子に振られたことなん?」
「それもある。実は、」
それから坂本誠が話した内容と先程クロエさんに説明していたことをまとめるとこうだ。
三年前、親の海外転勤に付き添いドイツに留学した中岡麻子。子供の頃から彼女のことを好きだったコイツは、その間も文通や電話でやりとりをしていた。そして今年三月、昨日話していた通り中等部転入のために帰国。両親は期間延長のため中岡麻子単身での帰還。唯一ドイツへ随行しなかった彼女の姉も、今は寮生活で自宅にはおらず、隣家である坂本家へ住まうことになったと。そして昨日、坂本誠の誕生日であったらしく、中岡麻子がそのプレゼントを渡したことをきっかけに思い切って告白するも、撃沈したと、そういうことだった。
まったくもって、季沙に聞かせられる話ではないなと改めて思った。
「で?あたしにどうしろと?」
「なんで振られたか分からなくて。」
知るか。
「本人に直接訊けばいいじゃないのさ。」
「聞いたさ。ただ、俺はそういうのとは違うって、それだけ。」
恋人にするのとは違う?つまり、幼なじみとしての意識しかないということだろうか。あたしだとどうだ?確かに、愼は恋人というより腐れ縁、弟みたいなものか。姉弟、姉妹……、か。季沙のことが頭に浮かんだがすぐにかき消す。今はあの子は関係ないでしょーに。
「幼なじみのままがいいってことじゃないの?あたしにも男の幼なじみいるけど、恋人の範疇にはないわなー。」
幼なじみでなくても同じだが、それはまた別の話だ。
「そういう感じなのか、女子って。」
「男子だってひとそれぞれでしょう。付き合いが長いからその分、有効範囲外。割とあると思うよ。」
「俺が変だったってことか。」
「だーからさー。それぞれだって。また新しい恋すればいーじゃない。」
「……ああ。割り切れたら、そうするよ。ありがとう。なんか、すっきりした。」
「なんだよ、きもちわりぃ。」
「素直に礼言ってるんだから素直に聞き入れろよ。」
「はっ。どーいたしました。言っとくけど、今日の貸しはデカいかんね。」
「覚悟しておくよ。」
坂本誠が帰った後、あたしは本当の店仕舞いを手伝っていた。
「悪いねー。お詫びに今日の分全部タダでいいよ。」
「マッタクですよ。クロエさんたら最悪なタイミングで逃げんだから。」
「うん。アレはマズかったと思ってる。」
なら逃げんなと言いたいところだが。まー結果論、季沙にチャンスが回ってきたということが分かったので、良しとしよう。
「ところでクロエさん、随分とキャラ変わりましたね。あっちが素ですか?」
「どっちも素さー。ただし、本当のワタシなんてもんはとうの昔に遠い場所に置いて来ちまってるがねぇ。」
「それって、」どういう意味ですか?と訊く前に、「野暮はお言いでないよぉ。」と遮られてしまった。ホント、謎が多い人だ。
「それにしても沙季ちゃんが間接キスしたのには驚いたなぁ。」
「え?」
なんだって?間接キス?誰が、誰と?
「だってホラ、マコトくんの冷めたコーヒー飲んでたじゃない。」
「あれは手付かずだったし、せっかくクロエさんが淹れてくれたのにもったいなかったから。」
「そんなことないよ。マコトくん、一口だけど飲んでたよ。」
まてまてまてまて。そんなはずはない。えーと?よく思い出せ。アイツはコーヒーが運ばれてからしばらく無言で、あたしがヤツを急かしてから、ヤツは、……ヤツは。ヤツは!
一口すすってた!!
「クロエさん、水!ていうか水道貸して!!」
あたしは口の中を何度も何度もゆすぎ、咽がかれる程うがいをした。
この浅野沙季、一生の不覚だった。
「やっぱあたし、アイツ大ッ嫌いだ!!」