雨が地面をうるさく叩きつける音が夜風とともに耳に響いたあの日、家を出て行く母を私は見送った。
床に転がる何本もの一升瓶。その中に横たわりいびきを掻いている、私の父。
「ごめんね、しおん。ごめん。ごめんなさい……。」
母は父を見ることなく、私に謝った。何度も、何度も、カセットテープのように謝った。母が何故謝っているのか、中学生の私には分かっていた。
「母さん、早くっ。」
「…………っ。」
兄に促された母は涙をこぼしながら私を強く抱きしめた。私はただ立っているだけだった。この日が来ることは知っていたからか、私には涙も出ず、悲しくもなかった。だから、母を抱き返すこともしなかった。
「母さんっ。」
「しおん、ごめんね。」
雨の音で聞こえないくらい、涙でかすれきった声で、母はもう一度謝った。
私を離し、そして背を向ける。玄関の扉が重く閉じるその合間から消えていくその背中を、私は見送った。
以来、母には会っていない。
中学の頃、クラスとかで、女の子が男の子からエッチなないたずらをされたことでよく「サイテー」と言うセリフをよく聞いた。だけど私はそうは思わなかった。その言葉は、父にこそ当てはまるものだと確信していたから。
酒を呑み、煙草を吹かし、母以外の女の人と外泊をし、あまつさえ母がいるにもかかわらず家に連れ込んだこともあった。そしてギャンブルをしては負けて帰って来て、その腹いせで母に乱暴をしていた。母が離婚を申し出た時もそれは暴力によって阻止されたし、実家に帰ってもすぐに連れ戻され、そしてやはり暴力を受けていた。
私は、父を殺そうとさえ思ったことがある。でもそうすると母が哀しむと、兄に言われ思い止まった。しかしこのままではいけないのは、兄も当然分かっていた。
やがて兄は、母を逃がすことを決めた。
方法や行き先、安全の保障など多くの段取りは兄がやってくれた。父のことは親戚にも有名であった為、彼らの協力も仰げた。
そして兄が父の酒に睡眠薬を入れたあの日。父が寝しずまったところで、母を逃がした。
家には父と、私たち兄妹。ふたりとも覚悟はしていた。兄は私を案じてしばらく仕事を休んでいたけど、私は兄を説得して仕事に戻ってもらった。
家に残った私は父に殴られた。私は母の体にできた無数のアザを思い出した。既に私にもいくつかのアザができていた。でも痛くはなかった。そう思うようにした。殴られても私は泣かなかった。泣いたら、母のようになるから。
ある日、兄が遠くの地方へ転勤することになった。会社の上司にもっと近場にならないかと掛け合ったらしいけど、無理だったらしい。兄は私に、一緒に来るように言ったけど私は断った。特に理由はなかったけど、兄には「今の学校が変わるのは嫌」だということにした。
それでも兄は「高校はこっちへ来い」と言って、心配してくれた。それは嬉しかったけど、でも、私は素直に受け止めることは出来なかった。その理由は今でも分からない。
私が三年生になり、兄が家に帰ることがなくなってから数日後。放課後に夕飯の材料を買った帰り道で、私は不良にからまれた。ほんの少し目が合っただけだけど、睨まれたと因縁をつけられたのが始まりだった。私はすぐに抑え付けられ、路地裏に連れ込まれ、服を脱がされた。アザのついた体。それを見た男は、面白がって私を殴り始めた。殴って、蹴って、私がぐったりしたのを見てから、ズボンを下ろした。その時だ。私をおそっていた男を殴り飛ばし、私はあの人に助けられた。その日はだけど、お礼も言えないまま彼を見失ってしまった。
それから更に数日後、学校から帰ると父が死んでいた。
初めはまた床で寝ているんだと思った。だけどご飯ができたから起こそうと父に触れたら、それはすっかり冷えきっていて、唇は青白くなっていた。警察の人が言うには、床に転がっていた瓶に足を取られ、後頭部を強く打ったことが原因らしい。
今まで散々派手にやってきた割には、あまりにもあっけない最期だった。誰に看取られることもなく、自分で蒔いた種で命を落とした私の父は、死ぬことで初めて家庭に幸福をもたらした。
だけど母は帰って来なかった。ワケは言わなかったけど、分かる気がする。きっと、この家には嫌な思い出しかないから。この家に来ると、またあの辛い日々を思い出してしまうからだと思う。
兄は相変わらず心配してくれたけど、私は結局、この家に一人で暮らすことにした。
それから数ヵ月が経ち、中学で最後の夏休みが間近に迫っていた頃だった。いつものように一人で買い物をしていると、あの日私を助けてくれた男の人を見付けた。
いやにドキドキしていたのを今でも覚えている。そんな状態で、気が付けば彼に話し掛けていた。
「あのっ……。」
「ん?……ああ、この前の?」
「は、はい!あの時はありがとうございました!」
「いや、いいんだよ。無事で何より。」
何故だろう。この人は赤の他人なのに、私のことを心配してくれていた。彼とは兄と同じくらい年が離れているような印象を受けたけど、兄に心配されるのとはまた違う気持ちになった。
その日から、私たちはたまに連絡を取り合うようになった。わたしがそうお願いした。家の電話番号を教え、話したい時に話せるように。
そんなある日。その日は珍しく、彼・七門[ななかど]さんから電話が入った。
『やあ、しばらく。元気かい?』
「はい。」
それは、いつもとは違った、やや固い声。
『あの、明日の土曜日なんだけど、時間あるかな?』
「え?……はい。これといって予定はないです。」
『そっか、よかった。それで、もしよければどうかな、二人でどこかに。』
私はしばらくその言葉の意味を考えた。
「ナンパですか?本気にしちゃいますよ、私。」
からかわれているのかと思った。だって、私は中学生で、彼は大学生。デートにしてはつりあわないと思ったからだ。でも。
『僕は本気なんだ。』
それが彼の答えだった。至極真面目で、ハッキリとした声。私に対して本当に本気になってくれていることが、伝わってきた。
これがきっかけだった。
元を辿ればお互いあの時の出逢いがきっかけだったけど、この会話が私と彼、七門昂さんとの始まりとなった。
それから私が、彼に全てを捧げるまでは早かった。七門さんが初めて会った時に私を助けたのはただの正義感からだったらしい。だけど次の日から、自分でも知らず知らずの内に私のことを考え、街を探していたのだと言う。それを聞いた私はとても嬉しくなった。私を助けてくれて、その時は名前も分からなかったけど、立ち去っていく後ろ姿を見ていた私はもう一度会いたいと思っていた。もう一度会って、しっかりとお礼を言いたかった。そしてその人も、私との再会を望んでいてくれた。それがたまらなく嬉しかった。
「本当にかっこよかったなあ、あの時の七門さん。」
「またその話?」
私がこの話題を出すと、彼はいつも苦笑いをする。照れくさいんだろう。私はそんな彼の顔が見たくて、また、彼をより深く愛するため、たまにこうやってその時の話をする。
「だって、本当にかっこよかったんですよ。お伽噺に出てくる王子様みたいで。」
「王子様、ね。……これでもかっ!」
「きゃっ、あ……んっ。……っはぁ、七門さんてば、ちょっとぉ!」
幸せだった。人の温もりを感じたのは初めてのような気がした。あの冷たい家庭、心配してくれる兄からも得られなかった温かさ、優しさを、七門さんからは感じた。彼に抱かれることで、今まで感じることのなかった心の充足感が私の中を埋め尽くした。幸せってこういうことなんだな、と思えた。
「へぇ、女子高に進むの?」
「えー、だって、共学に行って男子に言い寄られたくないもん。」
中三の年末。私は家庭教師という名目で昂さんを初めて自宅に招いた。
「自分で言うか?そーゆーこと。」
「言うよー。それとも昂さん、わたしのことかわいいって思ってないの?」
「そんな訳ないだろ。しおんほどかわいい女の子はいないって。」
「ロリコン。」
「なっ、バカ!おまえ〜っ。」
「あはははは。」
私たちは勉強なんて少しもせずに、いつものようにふざけ合って、愛し合って、そして、文字通り寝正月を過ごした。平和だった。嫌な思い出ばかりがあるこの家に、昂さんとの思い出が加わった。昂さんの温かさが。
四月。元々成績が良かったこともあり、志望校への入学を難なく果たし晴れて女子高生となった。この一年間は、幸せ真っ盛りだった。
―・Shion Kikuchi・―
雨の音で目が覚めた。これで何日目かと思うほど長く降っている、うっとうしいくらいの梅雨空。風邪で寝込んでいた私には、この蒸し暑さはよけいに疲労感を与えられる。重たい体をなんとか動かし時計を確認すると、今はいつの間にか昼過ぎだった。部屋を見渡す。誰もいない。
「昂さん?」
返事も無い。
ボーッとする頭でよく考え、自分はいまひとりだということを認識する。
それでも私は四つん這いになってから壁に手を付き、立ち上がり、家の中を探し回る。
昨日よりはだいぶラクになっている。きっと、寝る前に昂さんが食べさせてくれたお粥のおかげだと思う。
壁を這いながらようやくリビングに辿り着いた。テーブルの上には、ラップを掛けられたお粥と、置き手紙。
“冷蔵庫の食材が少なくなってきたから、買い出しに行ってきます。お昼までには帰って元気になるもの食べさせてあげるから、お腹すかせて待ってて。
朝ごはんもちゃんと食べなきゃダメだよ。お粥、レンジで温めてください。 昂”
うん。おなかすいてるよ、昂さん。
「でも……。」
どうしたんだろう。もうお昼の 1時を回ってる。時間に厳しい人だから、もし遅くなるなら連絡入れると思うんだけど。携帯を見ても、着信履歴はない。ということは………、どういうことだろう。
私は心配になって、昂さんの携帯へ電話を掛けた。まもなくそれは通話状態になり、しかし受話器から聞こえたのは昂さんの声ではなく、知らない人の声だった。
「あの、どちらさまですか?」
しかし相手は私の問いには答えず、問いを返してきた。
『七門昂さんのご家族の方ですか?』
「え、はい。」
それがあまりにも切迫した感じだったので、咄嗟にそう答えていた。でも、あながち嘘ではない。
『よかった。』
と呟くのは相手の声。
『いまウチのものがお宅に伺いに向かっています。早急に来て頂くようお願いします。では。』
「え?あの、ちょっと!」
だけど既に通話は切れていて、私の声は相手には届かなかった。
一体なんだというんだろう。
私はワケの分からぬまま、とりあえずパジャマから私服に着替えた。そしてしばらくして、インターフォンが鳴る。
玄関の外には、黒服の男。間髪入れず、胸ポケットから何かを取り出した。
「霧宮[きりのみや]警察署の須坂です。七門昂さんのご家族の方ですね?」
「警察?」
「お一人ですか?」
「はい。」
「ではこちらへ。もしかしたらまだ間に合うかも知れません。」
「あ、あの、ちょっと!」
「はい。」
「警察って、なにがあったんですか?昂さんがなにか?」
「事情は車の中で話します。とにかく今は、早く来て下さい。」
「最近ニュースでやってる、通り魔事件、知ってるかな。」
「はい。」
通り魔事件。確か、おととい辺りから報道されている連続殺人。昨日までに 4人殺されたと、ニュースで言っていた。
「その被疑者を、今日逮捕した。七門昂さんへの、殺人未遂の現行犯として。」
「……え?」
「テレビで報道させた顔写真にそっくりな男が商店街にいると通報が入ってね。我々も急行したんだが、」
私は刑事さんの顔を見れないでいる。そうしたら、話を聞き続けていられなくなるかも知れないと思う。きっと。
「到着しそして被疑者を確認した時には、子供を襲おうとしていた。だが、そこに彼が――」
「助けたんですね。」
「え・ああ。」
言われなくても分かった。昂さんはそういう人だもの。目の前で何か悪いことがあると、それを糾そうとする。あの時もそうだった。私がレイプされそうになったところを、助けてくれた。
そういえば、さっき私は夢を見てたな。ずっと前の夢。母さんが出てった時の夢。昂さんと出逢った時の夢。父さんが死んだ時の夢。そして、昂さんとの生活。まったく、なんてタイミングなんだろう。これじゃまるで走馬灯みたいじゃない。
「大丈夫ですよ。」
「え?」
「私、お昼ご飯まだなんですよ。もうおなか空いちゃって。あ、私風邪ひいて寝込んでたんですけど、昂さんがご飯作ってくれるって。すぐ帰って来るって。それで、おいしいご飯を食べさせてくれるって、約束、してるから。」
「………。」
「昂さん、今まで一度も約束破ったことないから、大丈夫ですよ。絶対。」
「そうだね。」
私は相変わらず窓の外を見続けていた。空からは相変わらず大量の雨が降り続いていた。相変わらず、雨の日はどうも好きになれそうにない。
しばらくして車は隣町の都立病院に着いた。刑事さんに案内されたのは、救急治療室。手術中のランプは、消えていた。部屋の前には男の人がひとり、長椅子に腰掛けていた。
「警部、連れてきました。」
「おう、須坂。ごくろうさん。」
須坂。どうやら私をここまで連れてきてくれた人はそういう人らしい。ああ、そういえば家の玄関でそう言ってたかも知れない。だめだ、まだ熱が下がってないかも。
「妹さんかな。」
警部と呼ばれた人は須坂さんから私に目を移し、立ち上がった。私はとりあえずうなずく。
「お兄さんの手術は終わってる。案内しよう。」
案内された病室は、思っていた部屋とは違った。
奥にベッドがあるだけで、そこには窓も無く、明かりも無く、何より、人の気配が無かった。
そっと、ベッドに近付く。横たわる何か。全てが白い布で覆われていて、それが何なのかは分からない。だけど、私には布の下を知りたいという意思はあっても、それをどかそうという意思は生まれなかった。だからベッドの横に座ることにした。
長い時間が過ぎたと思う。独りで居る時はいつもそうだ。
「どうしてだろう。」
不意に、思ったことを口に出していた。なんだかおかしな気がしたけど、私はそのまま言葉を続ける。
「昂さんといると、いつも楽しかった。あっという間に時間が過ぎた。私たちが出会ってからのこの 3年間も、すごく早かった。」
「昂さんのことが好きだから。昂さんのことを愛してるから。」
「約束したもんね。ずっと一緒にいるって。私が高校卒業したら、結婚してくれるって。子供たくさんつくって、大家族にしようって。」
「私の、子供の頃からの夢だった。温かい家庭で、幸せな毎日を、賑やかに、楽しくて、みんな笑顔で、ずっと、ずっと仲が良くて、いつまでも、大切にしていたい、そんな家族が、ずっと欲しかった。」
「昂さん、あの時約束してくれたよね。絶対そうしようって。」
「昂さんの約束は、今まで絶対破られたことないんだよ。」
「だから、ね?」
どうしてだろう。どうして私はこの部屋に連れてこられたんだろう。どうして私の前のベッドで寝ている人は、白い布を被っているんだろう。それはつまり、どうして、私はどうして、ここにいるんだろう。
私の手は布に触れ、それをそっと取った。
「…………。」
よく知った寝顔だった。いや、それによく似ていた。ただ違うのは、そこには血色が無いということ。蒼白とした、けれどもとてもキレイな眠り顔だった。以前、これと似た顔を見たことがある。あれは私の最も嫌いな人の顔だった。
いま目の前にあるのは、私の一番好きな人の顔。私が愛している人の顔。なんて不謹慎なんだろう。ただ寝ているだけなのに、白い布なんて被せたら、そんなのまるで。
「昂さん、おはよう。もうお昼だよ。」
そんなことは、死んだ人のすることじゃない。
「昂さんってば。おなかすいたよう。早くお昼ご飯にしようよ。」
やだな、頭がぼーっとする。やっぱり熱が下がってないんだ。だから、きっと、これはタチの悪いイタズラだ。
「返事してよ、起きてよ昂さん。なにか言ってよ、話してよ!」
両手が、彼の頬を掴む。とてもとても冷たかった。信じられないほどに。まるで氷のように。反射的に、その手を引っ込めた。
「いやだ。やめてよ。嘘でしょ?ねえ、嘘はイヤ!独りはイヤ!もうイヤなの!どうして?なんでなの?昂さんがいなかったら私、またひとりぼっちになっちゃう。ひとりは、もうイヤ。ひとりは暗いから。何もないもん。何も見えない。何もできない。独りは誰もいないからっ。」
彼の胸をたたく。寝てるなら起きて欲しい。今ならまだ、一週間口を聞かないくらいで許してあげるから。
「昂さん?昂さんは、わたしの光なんだよ。独りのわたしを、温かく照らしてくれた。独りだったわたしを支えてくれた。早く、早く帰ってきてよ。もうおなかペコペコで、ずっと待ってるんだから。ねえ、起きてよ。ねえ!!」
鳩尾を強くたたいても、昂さんが起きることはなかった。どうして。こんなことになってるんだろう。
「そん…な。こんなのないよ。なんでなの?分かんないよ。昂さん、教えて?ねぇ、昂さんってば!イヤ、ヤダよ、こんなの。もう独りはイヤ。私を、私をひとりにしないでェェェェェーっ!!!」
病院からの帰り。私はただ窓の外を見ていた。隣で運転する須坂さんの話も、まるで耳に入っていない。なんだかもうどうでもよく思えてきた。見える景色がなんともツマラナイ。どうしてビルなんて建てるんだろう。そんなツマラナイことも考えてしまう。ツマラナイ。面白くない。なんかもう。疲れた。
あれ、なんで私はここにいるんだっけ。昂さんのところに行くはずだったよね。今はどこに向かってるんだろう。昂さんはどこにいるんだっけ。あ、そっか。昂さんはいなくなちゃったんだった。
だったら、なんで私はここにいるんだろう。そうだ、昂さんのところに行かなくちゃ。私のこと待ってるよね。あまり待たせると悪いから、早く行かなくちゃ。
そして。
気付いたら、私は助手席からハンドルを握っていた。急ブレーキがかかり、大きな揺れが私たちを襲う。
頭上から刑事さんのどなり声が聞こえる。
刑事さんの胸元に、自分の頭に堅く角張ったものが当たっているのを感じた。
それが何であるか考えるよりも先に、そこに装着されていたそれを、抜き取った。
*
しおんは須坂が携帯していた拳銃を引き抜き、それを本能的に彼へと向ける。須坂の一瞬の怯みを隙に、しおんは車から飛び出した。
「ちょっと待て、ヤバい!」
すぐさま奪われた拳銃を持ったしおんを追う。外は大雨。今日は朝から降っているくせにちっとも収まる気配がない。それどころか雲の厚さは一層と増し、時間の割には最早夜中のようだった。おまけに雨は滝のように降りしきっている。お陰で視界は悪い。しかし彼女の姿はまだ見える。追いつけない距離ではない。
幸い、この土砂降りな天気だけに人通りはない。後は、自分が彼女に追い付けばいい。弾丸は全て抜き取ってあるからその点は問題ないが、それでも彼女を止めなくてはならない。
*
走っていた。
死にたかった。
手には拳銃。いつでも死ねる。
でも、須坂から離れたかった。一人で死にたかった。どうしてだろう。理由を考えても答えは見付からなかった。あんなに独りでいることを嫌がったのに、今は一人になりたがっている。
ただ、死ぬことが必要だと思った。だからとにかく走っていた。ふと気になって後ろを振り返る。すると思った通り、須坂が追いかけて来ている。このままでは追い付かれるのは時間の問題だろう。それなら、彼を撒くしかない。だから足に入れる力を増やして更に早く走った。
だが彼女は気付いていない。自分がこんなにも息をきらしていることに。自分が熱で、倒れてしまいそうなほどフラフラになっていることに。
それでも走った。走って、走って、ひとりになって、死にたかった。けれども、路地裏に入ったところでその足は止まってしまう。高いブロック塀に行く先を阻まれたからだ。そしてすぐに、須坂がその道に入ってくる。
「はぁっ、はぁっ、追い付いた。返してもらうぞ。さあ、こっちに渡すんだ。」
手を出しながら、しおんを壁に追い込む。
「来ないで!!」
だが銃を構えて牽制する。彼の動きが止まる。
「私は死にたいの!心配しなくても、私が死んだらあなたの手に返ります。だけどその前に、私を殺させて!!」
叫んだ後、目眩いを感じた。それでも、彼女は決して銃をおろさない。
「バカなことを……。そんなこと、尚更許せる訳ないだろう!いいから、返すんだ。」
「イヤです。」
「彼が死んだからか?よせ、そんなことをして、何になる。」
説得を試みるが、説得力がない。こんなことなら交渉術の授業をもっと真面目に受けていればよかったと後悔する。そしてしおんが言葉を返す。
「私にはあの人しかいなかった。昂さんが隣りにいてくれたから、私は今まで生きていられたんです。あの人が全てだった。……でもっ、私にはもう何も無い!生きている意味も、私を見てくれる人も、家族も!何もっ、何もっ!そんな世界に、生きて生き続ける価値なんてないじゃないですか!!」
須坂はいよいよ匙を投げようと思った。こんな相手に、何を言えばいいのか。いっそ、「なら勝手に死んでしまえ」と言ってしまおうか。言いたいことばかり言いやがって、こちらの言うことはちっとも聞きやしない。
一方のしおんは、早く死にたかった。でも、それなら何故さっさと死なないのか分からなくなっていた。目の前の刑事に、自分が銃を向けている相手に、何故か叫んでいた。ここまで走ってきても、疲労など感じないほど死への意識は強かったのに。
だから叫ぶのはもうやめだ。早く死んで、昂の許へ行こう。
「もういいでしょう?あなたには関係ないじゃないですか。」
そして、待つのもやめだ。
銃口は目の前の刑事から自分の頭に向けられる。
「よせ!」
距離を詰める須坂。
「いま、行くね。」
少女は最期を決意し、微笑を浮かべた。須坂の目には、その笑みがとても寂しげなものに見えた。
静寂が続いていた。暗いビル群の、ある一角の路地裏に、佇む人影が、ひとつ。
安全装置は解除されていなかった。しおんが引いた引き金は全て動くことはなく、カチッと乾いた音を出しただけだった。須坂は何も起きなかったことで混乱する彼女の動きを止める為、抱き締めた。緊張の糸が緩み彼の息は切れ切れになっていたが、やがて落ち着くと、耳に雨の音が戻って来る。
「どうして。」
しおんの、かすれて細い声もしっかりと聞こえた。
「どうして。」
同じ言葉を繰り返す。
「いいか、よく聞け。さっき俺には関係ないって言ったよな。大間違いだ。俺は君に拳銃を取られた。それだけでも始末書ものだってのに。いや、ヘタすりゃ減俸か、地方に左遷だ。そこに俺の銃できみが死んだら、俺はクビだ。」
死にたがった人間に対し身勝手な理屈を並べ立てたが、本当のことだ。仕方が無い。それに最悪、自分が殺人者扱いされる可能性だって否めない。
「冗談じゃない。」
だが、しおんには須坂の声は届いていなかった。ただ「どうして。」と繰り返す。
「私、死にたかった。死にたかったのに、どうして?どうしてこわかったの?死ぬって決めたのに、死のうって思ったのに、昂さんに会いたかったのに、……引き金を引いた瞬間、急にこわくなった。途中で止まって、弾が出てこなかったって分かったら、安心した。あんなに死のうと思ってたのに、覚悟したのに!なんで?どうして!?」
「じゃあ、まだ生きていたいんだろ。」
泣き叫ぶしおんに、彼女を抱く力を強めて、ハッキリと、彼女に伝えた。
「生き、たい?」
私は生きていたいのか。しおんは考えた。でも、生きる目的が見付からない。昂が、もういないから。
「でも、私にはもう、ここに生きる意味がない。」
だから死のうとした。だけど、いざとなると、それはとてもこわかった。
「生きることに意味なんていらない。俺たちは、幸せだから生きるんじゃない。幸せを求めるために生きるんだ。」
「幸せを……。」
いつか、昂さんも同じことを言っていた。たしか、何かの小説の受け売りだって言ってたっけ。
「どうしたいんだ?君は。」
「私は……。」
私は、まだ幸せになれるのだろうか。昂さんをひとりにして、私だけが幸せになっていいのだろうか。ずっと一緒だと約束した。一緒に幸せになろうと。けれど、それはもう一生叶わない。だったら、どうすればいいのか。選択肢は二つ。生きるのか、死ぬのか。
「死ぬのは、こわかった。死ぬのは、もういや。独りよりもこわかった……。」
なら、答えはもう一つしかない。
「私、生きたい……。」
そう願った瞬間、しおんは打ちつける雨の痛みに気付いた。その冷たさと、針のように刺す感覚を、全身で受け止めた。と同時に、視界がボヤけ、握っていた銃が手から滑り落ちる。
意識を、失った。
―・Sion Kikuchi・―
目が覚めると、見たことがない天井がそこにあった。ベッドに寝ていた。周りはカーテンで閉じられている。まるで保健室か、そうでなければ病室だった。
「生きてる。」
思わず心からそんな言葉が出た。
部屋の中には明るい光が差し込んでいた。体を起こし、窓の所まで歩く。それで初めて気付いたけれど、私がいま着ている服の胸元に、霧宮病院と刺繍が施されていた。入院服だった。ということは、ここはその病室なのだと確認できる。加えてここは一人部屋のようで、病室には私しかいなかった。
「あ。」
窓の外の木の枝に小鳥が停まるのが見えた。ピョンピョンと跳ねるように枝を移動しながら、やがて付け根の所へと辿り着く。
見ると、そこには巣箱が設置してあった。その小さな穴からは、 四匹のヒナがエサを欲しがって口を開けていた。さっきの小鳥はヒナに口移しをすると、また飛び立って行った。
お昼になって、病室に人が来た。お医者さんと看護師さんはさっき来たばかりだから、私宛の来客?
「やあ。元気そうで何よりだ。」
ベッドの上からさっきの巣箱を見ていただけだけど、そう言われた。
「あの、どちらさまですか?」
見知らぬ男の人の訪問に警戒し、シーツで体を覆う。
「ごあいさつだな。須坂だよ。」
警察手帳を取り出し私に見せる。本物の刑事さんだった。
ああ、そうか。思い出してきた。そういうことなのか、やっぱり。
「目が覚める前、夢を見てました。母の家出や、父が死んだ時のこと。それから、昂さんと出会ってからのこと。」
「……そうか。」
「昂さんは、死んだんですね。」
「……ああ。」
「やっぱり、夢じゃなかったんですね。」
「ああ。」
「須坂さん。」
「なんだ?」
「助けてくれて、ありがとうございました。」
「気にするな。そんなことよりコレ、お見舞い。」
渡された袋には、いくつかのりんごが入っていた。
「あの、なんでわたしがりんごを好きって分かったんですか?」
「あ、そうなの?よかった。いやぁ、お見舞いとしては花束の次に定番かと思ったんだけど、他に思いつかなくてね。どうも、考えることは苦手みたいだ。」
それは刑事さんとしてどうなのだろう。しかしそういうことか。少し、びっくりした。
「そっか、りんご好きか。食欲はあるか?一個むこう。果物ナイフも持ってるから。」
そういうと彼は、袋の中からひとつ選んで、皮をむいて一口サイズに切ってくれた。
「あの、今日は何でお見舞いに?」
りんごをかじりながら、須坂さんに訊ねる。
「今日は非番でね。といっても昨日も顔出したんだが。ああ、因みに、今日はあれから二日経ってるからね。医者の先生から聞いてる?」
「いえ、何も。……じゃあ今日は火曜日で、私は昨日一日中寝てたんですね。」
「そうなるね。」
どうりで、体が軽いと思った。
「そうだ。まだ君に渡すものがあるんだ。」
「?」
彼は背広のポケットから、小さな、手の平サイズの箱を私に手渡した。
「これは?」
「七門くんから預かったものだ。」
「えっ……。」
「実は、七門くんが刺された後 最初に彼のところに駆けつけたのが僕なんだ。その時、自宅にいる君に届けてくれと、頼まれたのがそれだ。」
それは指環だった。シンプルなデザインの。いつか、ふたりで買い物をしていたとき、私が欲しいとせがんだ指環。その時は高いからダメって言われたけれど、買ってくれたんだ……。
「きっと、約束の指環だったんだな。」
そう。でも。
「でも、バカだよね。死んじゃったら意味ないじゃん。折角買っても、意味、ないじゃない……。――ホント、バカッ。」
「心中お察しする。でも、それを君に渡せてよかったよ。」
その言葉に、こらえていた涙が溢れ出した。
「私も、生きていてよかったです。」
「うん。」
私は、彼の顔を見た。涙が邪魔してハッキリ見えなかったけど、でも、彼に向かって真っ直ぐ、
「ありがとうございます。」
深く、感謝した。