私は、学校では主に「委員長」と呼ばれている。あだ名みたいなものだけど、実際クラス委員長を務めているので分かりやすい呼び名だ。
小学一年の、初めての委員会決めのホームルーム。こういうのはいつになっても大抵そうなのだが、学級委員長の役職だけ希望者が空く傾向があるらしい。他の委員会は立候補者やじゃんけん選抜戦やらで大方決まっていたものの、クラスのリーダーに自らなろうという者は誰一人いなかった。そんな沈黙の中で唯一挙手をし立候補した人間がいた。それが私、浅野季沙だ。自分で言うのもなんだけど、私は昔から正義感や責任感がやたら強かった。だから、誰かがやらなくちゃいけない、だけど誰もやらないのなら私がやろうと思ったのだろうと、今の私は当時の私を自己分析する。
そして学級委員長という仕事にやりがいと魅力を感じた私は、以来真っ先に委員長に立候補するようになった。その為だろう、三年生になるかならないかの時には、既に「浅野季沙=委員長」という認識が同級生の間で定着していた。クラス替えで新しく顔を合わせる生徒も、親しみを込めて私のことを「委員長」と呼ぶ。中には皮肉でそう呼ばれることもあるけど別に気にしていない。実際私は委員長という役職に就いているのだし、何よりもみんなにそう呼ばれるということは みんなが私を委員長だと認め、頼ってくれているのだと。私にそう思わせてくれる支えにもなった。
私はこの役職に誇りと尊厳を持っている。だからこれからも続けるつもりだ。
だけど、最近になって私をそう呼ばないひとが現れた。姉や親友以外では珍しく、彼は私のことを苗字で「浅野」と呼ぶ。私は初め、それがどこか悔しかったのだけれど、でも彼を疎ましく思うことはなかった。それどころか、私は彼に惚れてしまっていた。そう、あれは一目惚れだった。
ことは、今年の四月に遡る。高校への進学。附属中学からエスカレーター式で進んだ私はあまり代わり映えしないなあと思いつつ今年一年を共にするクラスメイトを見回していた。するとその中のひとり、彼を見つけた。その瞬間、私は経験したことのないくらい心臓の鼓動を感じた。たった一瞬で脈拍はグンと上がり、顔が上気する感覚が走った。視線はそのまま固定され、その後中学以来の友人に話しかけられるまでどれくらいの間か、ボーっとしていた。いや、その後もしばらく続いていたのだろう。恥ずかしながらその時の友人との会話や、自分が自己紹介で何を話したかでさえ覚えていないのだ。だけど、これだけははっきり覚えている。そう、彼の自己紹介だ。
彼が教卓の前に立ったその時、私の意識は現実へと引き戻された。一所懸命に彼の名前を知ろうと、全ての神経を耳と前頭葉へ集中させるかのような真剣ぶりだったに違いない。
「坂本誠です。大和市第三中学から来ました。剣道部に所属していましたが、高校では文科系にしようかと思っています。一年間お願いします。」
静かな物腰で、落ち着いた少し低めの声だった。背丈は私よりも高いだろうか。髪の毛は全体的にやや長めだけど、きちんと櫛を入れたように整えられている。とにかく第一印象は「素敵な人」だった。
そしてどういう巡り会わせか、運命は私に強く味方をしてくれた。
次の日に行われたクラス替え後恒例の行事、クラス委員の役員決め。私の所属クラスでは委員長が私になる為、その代わり副委員長の席が空白のまま時間が過ぎるのだけれど、彼は最初図書委員での選抜に落選した後、なんとそこへ立候補した。結果、他に自薦他薦は現れず、彼・坂本くんは副委員長になったのだった。
今まで、余った副委員長の席はクジ引きで決められていて、誰かが立候補するなどということは一度も無かった。だけど彼は自ら副委員長に名乗り出たのだ。それが彼の第一希望でなかったにしても、私が彼に惹かれる想いに拍車をかける理由には十分すぎた。
それ以来、席替えでは運良く隣になれたり、委員会や勉強のことで話し合ったりと、私の高校生活は幸せなスタートを切ったのだ。
ところで「委員長」という呼び名のせいか、私はどうしても堅物の女子と思われているみたいだけど、そんなこともない。自分はこれでも普通の女の子であると信じている。友だちにカレシができれば羨ましいとも思うし、カレシといわゆるそっちの経験をしたと聞けば少しくらい想像だってしてしまうものだ。
だけど、私の青きに満ちた中学生活はまったく男っ気がなく、委員会と部活に明け暮れることで幕を閉じた。それはそれで有意義ではあったけど、だけど私だって友だちみたいな恋愛をしたかったというのが本音でもある。
なぜそうならなかったのか。
私には双子の姉がいるが、その姉さんがかつて、学校で一番女子に人気があると言われるいわゆる二枚目スポーツ少年の先輩に白昼堂々学校の廊下で告白されたことがあった。当然のように喧騒に包まれたその現場を、次の瞬間に姉さんは静寂を走らせた。なんと相手の男子の、一番入れてはいけない所に膝蹴りを入れたのだ。
この、後に「禁門事件」と名付けられたそれは、妹の私に告白しても彼と同じ目に遭わされるという噂が流布した。因みに私たちが中一の時である。
いや、それだけのせいでもないかも知れない。何せ私は今まで男子に魅力を感じることがいかんせん無かったのだ。学年でどんなにかっこいい男子がサッカー部のレギュラーだろうと、野球部の四番バッターだろうと、周りの女の子たちのようにキャーキャー騒ぐような気分にはなったことが無かった。告白されることがないなら自分からすればいい。そんな簡単なことだけど、そうしなかったのも事実なのだ。
でも、今回は違う。この胸のトキメキ。これはまさしく恋だと思う。切なくひとを愛おしく想う気持ち。初恋。そう、せっかく手に入れたチャンスを無下にはできない。人生初めての浮いた話だけど、浮かれてばかりいては話にならない。下手をすれば、何もせぬまま撃沈してしまう。それだけは、どうしても避けたかった。
四月も半ば。新しい気持ちの私たちを校門から出迎えてくれた桜の木に若葉が見え出した頃。その放課後に、私はひとりで委員の仕事をしていた。
この学校では五月と十一月の末に体育祭と文化祭がある。そしてそれは毎年時期が交互に行われ、今年は五月に体育祭、十一月に文化祭が開催される。今日はホームルームで体育祭でやりたい学年対抗種目をいくつかの候補の中から選んでもらった。私はその集計をしていて、坂本くんは先ほど教室にやって来た先生に仕事を頼まれ、一時的に席を離れている。
クラスアンケートの集計。そんなに難しい仕事ではない。私は集計し終えたアンケート用紙を積み重ね整理した後で、ただただぼーっと窓から空を眺めていた。だんだんと暖かくなって来たとは言え、夜が来るのはまだまだ早い。向こうの空は赤紫に、教室には橙の光がかろうじて届いている。私がそんな夕日に黄昏ていると、後ろの扉が開く音が聞こえた。坂本くんだ。
「悪い。遅くなった。」
「ううん。ちょうど、いま終わったところ。」
本当なら、こんな簡単な仕事はひとりでも出来なきゃいけない。こんなに時間を掛ける仕事でもない。でも、今日の私は、私の心は、いつもと違っていた。とても同じではいられなかった。今だって、いつも通りの私でいられているかどうか……。
「そっか。ごめん。反対側の校舎まで荷物運びでさ、思ったより時間かかった。」
「そうなんだ、ごくろうさま。じゃ、帰ろうっか。」
私は、見てしまったんだ。机の上に残された、彼の生徒手帳。ほんの出来心だった。誕生日や血液型を知りたい、それだけだったのだ。
「あ、そうだこれ。さっきの先生から手伝ったお礼にもらったんだ。ちょっと無理言って浅野の分ももらったから、これはお前の分な。」
そう言って缶ジュースを渡してくれた。結露が彼の手の形に切り取られていて、私はそれに自分の手を重ねた。私も、彼と手を繋げたらいいのに。あんな風に。
「あれ?浅野、ここの集計だけど、計算が違ってる。」
「え?」
いつの間にか、坂本くんが集計リストをチェックしてくれていた。
「ごめん。どこ?」
「クラス合計が四十四人になってる。どこかで二人ダブりカウントしてるな。」
「うそ、……やだ、どうしよう。」
今期に入って、いや、坂本くんと一緒にやるようになってから、私にはミスが多い。それもどれもが凡ミスばかりで、坂本くんの足を引っ張ってしまっていた。今日はこんな簡単な集計でさえ、だ。
(ううん。坂本くんは悪くない。悪いのは、私だ。)
と自省し心を落ち着かせようとするも、全然と緊張は治まらない。
「ごめんね。修正は私がやるから、坂本くんはもう帰って。」
「いいよ、手伝う。こういうのは二人掛かりの方が効率がいいだろ。」
「そんな、私のミスなのに坂本くんに迷惑かけられない。」
「いいから。ほら、用紙貸しな。」
これでは押し問答になるだけなので、言われた通り彼にクラス全員分のアンケート用紙を渡し、その回答を彼が読み上げ私が正の字を書いていく。あっという間に集計が終わり、今日の分の仕事が片付く。
集計リストを職員室に提出してから、私たちは帰路へと就いた。私は徒歩で通っているが、坂本くんは隣の大和市から電車で通学している。そして委員の仕事がある日は、夜道は危ないからと近くまで送ってくれているのだった。
初めてのとき、「駅までの通り道だしついでだ。」と言っていたけど、そうじゃないことを私は知っている。私の家の方角だと坂本くんが来るのとは逆方向で、私を送った日は普段の駅よりも一駅分戻っていることを。
そんな彼の優しさが、私の胸をきゅっとしめる。切ない。彼にもっと近付きたい。彼をもっと知りたい。彼の隣にいたい。
でも、そんな思いが私を更に追い込むことも知っている。今日、知ってしまった。
彼の生徒手帳。その中には、満面の笑みで親しげに手を繋ぐ少女の姿があった。写真に写った彼はすごくなごやかな表情で、少し照れているような、そんな顔をしていた。
羨ましかった。
だけど、それよりも、私は自分が憎かった。彼の心を勝手に覗き見た私が。それを知らず接してくれる彼の好意を謝罪もなく受け取る私が。バレないように、いつも通りであろうと平静を装っている私が。たまらなく、とんでもなく憎かった。
「やっぱり、私には無理だったんだ。」
家に着いた時には太陽はとうに沈んでいた。夕方には見えた空は流れてきた雲で覆われ一番星も隠されて、まるで今の私の心を代弁しているかのようだった。